和泉式部ゆかりの寺院「誠心院」の歴史と見どころ

こんにちは。ザ・ゲートホテル京都高瀬川のスタッフです。

さて、当ホテルでご体験いただけるアクティビティ「写経体験」では、奉納をご希望されるお客様からは書き終えた写経をお預かりし、ホテルから徒歩5分程度の「誠心院」というお寺に納めております。 京都市街の中心地、新京極通に建つこの「誠心院」はいったいどのような歴史を持つ寺院なのか、スタッフがお話を伺って参りましたのでご紹介させていただきます!

誠心院とは?

京都で最も古い商店街と言われる新京極通にその山門を構えるお寺、誠心院。ザ・ゲートホテル京都高瀬川からは徒歩約5分の位置にある、真言宗泉涌寺派のお寺です。 誠心院は平安時代の歌人「和泉式部」が初代住職を務めたといわれる歴史あるお寺で、現在でも和泉式部の墓所が境内に遺されています。別名を「和泉式部寺」とも呼ばれる誠心院。山門や境内にはいくつもの和泉式部ゆかりの展示がされています。

山門では、和泉式部像の写真がみなさまを出迎えてくださいます

誠心院と和泉式部

誠心院の成立はいまから約1000年前、万寿4年(1027年)に関白の藤原道長が娘である上東門院彰子(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺の中の東北院の傍らに建立させた「東北寺誠心院」が、現在の誠心院の起源と言われています。娘である小式部内侍に先立たれたことを契機に仏門に入った和泉式部は誠心院の初代住職となり、以後この誠心院は別名「和泉式部寺」と呼ばれ、特に様々な悩みを抱える女性たちから厚い信仰の対象となってきました。 建立後は何度か移転を繰り返しますが、天正年間(1573年-1592年)には、豊臣秀吉公の命により現在地である寺町六角に移転します。明治期には新京極通の開通により境内が二分されることとなり、さらには明治43年(1910年)の近隣火災により寺内の建物が大方消失してしまいますが、誠心院を大切に思う人々の尽力により、大正8年(1919年)に本堂が再建され、いまでも「和泉式部ゆかりのお寺」として京の人々に親しまれています。

幕末、禁門の変による元治元年(1864年)の大火から立ち直る間もなく、明治4年に京都府知事の政策で新京極通が誕生し、通りを隔てて境内地は二分される事になります。

山門・堂宇を失い、まさに寺門は荒廃を極めましたが、雲龍院からお越しの泉周応宗師をはじめ、箸蔵栄龍先師が再建にあたりました。

明治43年(1910年)にも近隣で火災が発生し、蔵を残してすべてが焼失しますが、曽我部俊雄・向井俊恭の二人の先住様方の弛まぬ精進と、檀信徒の惜しみない助力のお蔭で、大正8年(1919年)に現在の本堂が建立されました。

誠心院ホームページより:https://www.seishinin.or.jp/about/
誠心院の本堂。御本尊として、阿弥陀如来を祀られています。
誠心院本堂前にある、和泉式部と娘・小式部内侍のパネル

それでは、和泉式部とはどのような人物だったのでしょうか?

平安時代の名歌人であり、「中古三十六歌仙」の一人にも数えられる和泉式部は、大江雅致(おおえのまさむね)の娘として970年代後半にこの世に生を受け、のちに和泉守であった橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻となります。当時の日本では結婚した女性を本名で呼ぶことは失礼であるとされていたため、父親の官名(式部丞)と夫の任国(和泉)を合わせて「和泉式部」と呼ばれるようになりました。

藤原定家による秀歌撰「小倉百人一首」に採録をされた「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな」という句に代表されるように、情熱的な恋の歌で高い評価を受ける和泉式部。彼女の人生も、数々の恋愛で彩られたものでした。

山門内にパネル展示されている和泉式部絵巻

一般的な貴族の家庭に生まれた和泉式部でしたが、橘道貞との婚姻期間中にときの冷泉天皇の第三皇子である為尊親王との熱愛が取り沙汰されます。これを受け、和泉式部は親に勘当をされることとなりました。のちに為尊親王は早逝してしまいますが、その数年後にはその弟君である敦道親王の求愛を受けます。和泉式部に夢中になった親王は、彼女を自分の邸内に迎え、正妃が家出をする事態を招きます。この2人の親王との恋愛は当時、非常にスキャンダラスな事件として人々の口の端に上ることとなりました。

その後、敦道親王との間に一子を設けますが、敦道親王も兄同様に早逝してしまいます。服喪が明けた和泉式部は、一条天皇の中宮である藤原彰子に女房として出仕を始め、同じく彰子の女房などを務めていた紫式部、赤染衛門などの女流歌人たちとともに宮廷サロンを築きます。その才能は同時代の歌人にも高く評価され、様々な集歌集や勅撰和歌集にも選ばれるなど、時代を代表する女流歌人として名を馳せていきました。

しかし、橘道貞との間に授かった小式部内侍(こしきぶのないし)が20代半ばで早世してしまうと、悲しみに暮れた和泉式部は仏教に救いを求めます。女性は往生成仏できないという考え方が一般的だった当時、女人往生の術を求めて播磨国書写山円教寺の性空上人の元を訪ね、上人の教えをもとに誓願寺に入り、阿弥陀如来に帰依します。専意法尼という戒名を授かった和泉式部は、藤原彰子が父・道長に頼み建立をさせた「誠心院」の初代住職となり、この寺内で女人往生をしたと言われています。

和泉式部が詠む美しくも悲哀を感じる数々の和歌は、自身の恋愛経験から歌われたもの。1000年以上が経ったいまでも多くの人々を魅了し続けています。

境内には和泉式部が詠んだ和歌の碑も建っています。

誠心院の見どころ

1000年以上の歴史を持つ誠心院。その境内の見どころをご紹介いたします!

新京極通に面する山門のすぐ横にある鈴成り輪。和泉式部の古い灯篭の竿と台座を使用していると伝わり、才色兼備な和泉式部にちなんだ知恵授けや恋授けのご利益があると言われています。実際に回させていただき、カラカラという澄んだ音に癒されました!

鈴成り輪を回すと美しい鈴の音を聞くことができます。

山門をくぐると、壁面には誠心院に伝わる和泉式部縁起絵巻の絵画部分がパネル展示されています。和泉式部が女人往生するまでの半生が描かれた絵巻は見応えがあり、時間を忘れて見入ってしまいます。

山門内の和泉式部絵巻。和泉式部の半生が美しい絵とともに描かれています。

幕末の大火で消失した神変大菩薩像(木造)を再興したもの。水をかけることによって「開運隆昌」のご利益があるそうです。お立ち寄りの際にはぜひ願いを込めて、そっとお水をかけてみてください。

力強さと優しさを兼ね備えた表情が印象的です。

謡曲「誓願寺」にも登場する和泉式部の墓所、宝篋印塔(ほうきょういんとう)。現在建っているものは正和2年(1313年)に改修建立されたものです。とくに女性の憧れの対象として、古くから多くの方が祈りを捧げるに訪れていたとのこと。現在でも、たくさんの方々が和泉式部を慕い、手を合わせています。

いまも多くの方が和泉式部を偲び、祈りを捧げに訪れています。

ザ・ゲートホテル京都高瀬川とのつながり

前述いたしました通り、ザ・ゲートホテル京都高瀬川の館内にある「Retreat Room」では写経を体験いただくことができ、書き終えた写経をホテルスタッフへお預けいただくと、誠心院へ奉納をさせていただいております。誠心院へお預けした写経は、宝篋印塔へ納めていただけるそうです。一般の写経奉納は受け付けていないそうですので、ザ・ゲートホテル京都高瀬川にご宿泊をいただいたからこその特典です!

また、誠心院に足をお運びいただくと、和泉式部の和歌が書かれた御朱印など、数種類の御朱印をいただくことができます。書かれている和歌は季節のもの、百人一首に入っているものなど、その日によって変わるとのことですので、訪れるたびに違うものをいただけるのも楽しいですよね。

約1000年の歴史を持つ誠心院。ザ・ゲートホテル京都高瀬川で写経をご体験いただいたお客様はぜひ、誠心院にも足を運び、悠久の歴史に想いを馳せてみてくださいね。

和泉式部の和歌、そしてイラストが描かれた御朱印。数種類からお選びいただけます。

Visiting Information

施設名:誠心院

URL:https://www.seishinin.or.jp/

住所604-8047 京都府京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487
TEL075-221-6331
開門時間7:00~18:00(御朱印受付は9:00~17:00)
※開門時間など、最新の情報は直接、施設にお問い合わせください。

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